その日の夜――「明日香。突然なんだが今月の18日から25日まで2人で一緒にモルディブへ行かないか? 実はもう飛行機もホテルも予約済みなんだ」「本当に!? 行きたい! 行くに決まってるでしょ!」明日香は目を輝かた。「そうか。よし、それじゃ一緒に行こう」翔は笑顔で答える。「2人きりで旅行なんて本当に久しぶりよね。嬉しいわ……今から楽しみ。そうだ。新しい水着買わなくちゃ。それに洋服も」「ああ、好きにするといいさ」「だけど……」明日香の顔が曇る。「急に一体どうしたっていうの? 今までの翔ならこんな急に予定を立てたりしないのに」ジロリと翔を睨み付ける。「う……。そ、それは……」(参ったな……。相変わらず明日香は勘が鋭くて困る)翔は思わず苦笑するが、その表情を明日香に見られてしまった。「ほら! その顔! 絶対に何か隠してるわね? 正直に言いなさいよ」「わ、分かったよ……」翔は溜息をつくと、今までの経緯を全て話した。突然朱莉とハネムーンへ行くように祖父に勝手に日程とホテルを予約されてしまった事等……。話を聞き終えると明日香は激怒した。「何よ、それ! それじゃあ私は2人のハネムーンのおまけで付いて行くって訳ね? 何が2人でよ! 嘘つかないでよ!」目に涙を貯め、ヒステリックに叫ぶ明日香に翔は必死で宥める。「違う、落ち着いて良く聞けって。俺はな、最初から明日香、お前を連れて行くつもりだったんだからな?」「え……? 翔……? その話、本当なの?」目にうっすら涙を浮かべつつ、明日香は信じられないと言わんばかりの目で翔を見つめる。「ああ、当たり前じゃないか? 明日香を1人日本に残して旅行になんか行けるはず無いだろう?」翔が明日香の頭を優しく撫でる。「本当に……? 嬉しい!」明日香は翔の首に腕を回して抱き付く。「でも……朱莉さんも一緒に行くのよね……」「何言ってるんだ。2人で行こうってさっき言ったばかりだろう? 彼女は行かないよ。俺と明日香の2人で行くんだよ。入院している母親を置いて、1週間も日本を離れたくないって言うんだ」本当は翔にだって、その話が朱莉が旅行に行きたくない為の言い訳だと言うのは重々承知していた。「ええ? ハネムーンなのに? それっておかしいんじゃないの?」明日香はそう言ったが、朱莉と言う邪魔者がいない翔との旅は想
翌朝――翔が出社するとすぐに明日香は朱莉にメッセージを送った。『おはよう、朱莉さん。大事な話があるの。今すぐ私達の部屋へ来てくれるかしら? 部屋番号は1902号だから。待ってるわ』それだけ打つと明日香は朱莉からのメッセージを待った。わざと私達の部屋と、朱莉にとってチクリとする言葉を取り入れる事を忘れなかった。すると5分も経たないうちに朱莉から返信が来る。『分かりました。すぐに伺います』明日香はそのメッセージを見ると、満足そうに笑みを浮かべた――――ピンポーン部屋にインターホンの音が響き渡る。――ガチャリドアを開けて、明日香は朱莉の余りの変貌ぶりに驚いてしまった。茶色がかかった二重瞼の大きな瞳。彫りの深い顔立ち、ふんわりと柔らかく波打つウェーブの髪……。最初に会った野暮ったい朱莉とは雲泥の差だった。明日香は内心の動揺を押さえつつ、言った。「あ、あら。貴女垢抜けしたみたいじゃない。中々似合っているわよ」「ありがとうございます」素直に頭を下げる朱莉に何故か明日香はイラついてしまう。(フン。何よ……スカした態度取ってくれちゃって……。どうせ私の事馬鹿にしてるんでしょう?)「まあいいわ。中に入ってちょうだい」明日香は朱莉を部屋の中に案内した。明日香と翔の部屋は生活感が溢れていた。同じ間取りなのに全くの別の部屋に見えてしまうから不思議だ。「そこにかけて」朱莉は明日香に勧められるまま応接セットのソファに腰を下ろす。朱莉が座るのを見届けると自分も座り、いきなり話を切り出した。「朱莉さん……。貴女モルディブへは行かないそうね?」「はい。病院に入院している母が心配なので……」朱莉は少し俯き加減に言うが、明日香には朱莉の嘘をすぐに見抜いた。(嘘ね。きっと翔に何か言われたんだわ。おおかた現地に着いたら自由に過ごしていいとでも言われたんじゃないかしら?)明日香は意地悪そうな笑みを浮かべた。「ねえ、貴女……自分の立場を分かってるの?」「え?」「貴女の役目は周囲を騙して偽装妻を演じる事よね?」「は、はい……そうですけど……?」「祖父は貴女が本当にハネムーンへ行ったのか、証拠写真を送れと言ってくるかもしれないわ。それに日程まで指定して来たと言う事は祖父もモルディブへ来るかもしれないって考えに至らない?」明日香の話に朱莉は顔色を変えた。確
翌朝――朱莉はスマホを握りしめ、重い足取りでパスポートセンターを出てため息をついた。どうせモルディブへ行くなら、いっそ一人で行きたかった。密かに朱莉は心の中で旅行に行けなくなることを期待していたのだが……。(この時期だから航空券等取れるとは思っていなかったのに……) 結局、昨日朱莉は明日香に説得されてやむを得ずモルディブへ行く事を承諾させられてしまったのだ。午前中の内にパスポートセンターに行って発行手続きを済ませれてくるように言われた朱莉は憂鬱な気持ちのまま手続きを済ませてきた。そしてその帰り道、明日香からモルディブへ行く飛行機の手配とホテルも予約することが出来たので必ず一緒に行くようにとのメッセージが送られてきたのだ。 翔からは現地に着いたら自由行動をして構わないと言われているが、英語もフランス語も話せないような自分が一人で行動する事等出来るのか不安だった。現地のガイドを雇う事は可能だろうか? 明日香に頼んでもそれ位一人でやりなさいと言われそうだし、翔に頼めば恐らく明日香に知れてしまうだろう。それに明日香の手前、翔に直接頼みごとをするのは良くない事をしている気分になってしまう。そうなると、思い浮かぶ相手は1人しかいなかった。「九条さん……あの人にお願いしてみよう……」朱莉はスマホをタップした―― 着信音と共に、琢磨のスマホにメッセージが届いた。いつものように翔のオフィスで仕事をしていた手を止めてスマホに目を通し、驚いた。(え? 朱莉さん……? 何故突然俺のスマホにメッセージを送ってきたんだ?)思えば朱莉とのメッセージのやり取りはPC設置の時以来、実に3カ月ぶりだった。琢磨は翔の様子を伺った。広々としたデスクの上に何台ものPCを並べ、画面を食い入るように見ている翔にスマホでメッセージが届いた様子は無かった。と言う事は翔には連絡せずに直接自分にメッセージを送ってきた事になる。(何か困ったこ事でもあったのだろうか? 翔にも相談出来ないような何かが…?)琢磨は翔に気づかれないように背中を向けるとメッセージを開いた。『お久しぶりです、九条さん。お忙しいところ、メッセージを送ってしまい、申し訳ございません。実はハネムーンと言うことで翔さんと明日香さんとの3人でモルディブへ行くことが決定しました。ただ、現地に着いたら自由に行動してよいと言われたの
その日の夕方。朱莉がPCに向かってレポートを書いているとスマホがなった。相手は琢磨からだ。「九条さん……。良かった……忙しい人だから今日中に連絡がこないと思っていたのに。それとも断りのメッセージなのかな?」若干の不安な気持ちを抱えつつ、朱莉はメッセージを開いた。『朱莉様。お返事が遅くなりまして、申し訳ございませんでした。本日、日本の代理店より現地のツアーコンダクターと連絡が取れました。その人物は現地在住12年目の日本人女性です。8/18~25日まで現地案内及び、通訳をお願いしました。料金はもう支払い済みですのでご心配なさらずにモルディブでの観光をお楽しみ下さい。滞在するホテル名が分かり次第、また私に連絡を下さい。どうぞよろしくお願い致します。PS:副社長には内緒で手配しましたので、ご安心下さい』(九条さん……)久しぶりに誰かに親切にしてもらって、朱莉は目頭が熱くなるのを感じた。本来ならこのようなことは翔に頼むべきなのに、頼みの綱の彼は明日香と通じ、彼に頼もうものなら全て明日香に筒抜けになってしまう。頼りたい相手に頼ることが出来ないことが、こんなにも不安な気持ちになるとは思わなかった。「でも、誰かに頼らなくても、1人で何でも出来るような人間にならなくてはいけないってことだよね? だって翔さんと明日香さんとの間に赤ちゃん生まれたら私が一人で育てていかないとならないんだから。もっともっと強い人間にならないとね。そうだ、明日香さんに、どこのホテルに泊まるのか聞いておかなくちゃ」自分に言い聞かせると、朱莉は明日香にメッセージを送った――****―21時過ぎ「翔、朱莉さんがパスポート取得してきたわよ」会社から帰宅してきた翔にしなだれかかるように明日香が言った。「そうか。でも良かったよ。彼女が行く気になってくれて。これも明日香のおかげだな。ありがとう」内心、複雑な気持ちを抱えつつも翔は明日香にお礼を述べた。「いえ、どういたしまして。飛行機も無事とれたしね。やっぱりVIP扱いされていると、便利よね。私たちと同じ飛行機に搭乗することが出来たから」「そうか、彼女もファーストクラスに乗るのか?」翔の言葉に明日香は眉をひそめた。「え? 何言ってるのよ翔。彼女はエコノミークラスに決まっているでしょう?」「え……? 朱莉さんだけエコノミーに乗せるのか
8月18日―― 今日からモルディブへ1週間の名目だけのハネムーンが始まる。朱莉は手元にある航空券を見てため息をついた。明日香からは現地のモルディブで集合しようと言われたが、そこは丁寧に断りをいれさせてもらった。その際に、言葉も話せなくて大丈夫なのかとか、海外旅行なんか貴女は行ったことは無いでしょう?等嫌味は言われたが……そこは黙って聞いていた。最近になって明日香の事が分かるようになってきたのだが、要は明日香の気に障らない態度を取っている限りは、特に嫌味を言われることも無いのだ。到着当日は現地に住む日本人ガイド女性が空港まで迎えに来てくれる事になっている。朱莉が個人的に現地のガイド兼通訳を雇っているのはもう知っているが、その女性が空港まで朱莉を迎えに来てくれているのが分かれば、きっと明日香の機嫌が悪くなるだろう。泊まるホテルは同じだが、明日香と翔は本館。そして朱莉は別館で、隣り合ったホテルとなっていた。現地集合と言われても何の意味もないことは朱莉には良く分かっていたので、事前に自分の方から一人で観光するので、二人で旅行を楽しんでくださいと連絡を入れておいたのだ。その際も嫌味に取られないように、慎重に文面を考えて、同じメッセージを2人同時に送ったのだ。その事をガイド女性に告げると、何と彼女から当日は空港まで迎えに行き、一緒に食事をしましょうと言われたのである。朱莉は貴重品を入れているショルダーバックから手帳を取り出した。そこには現地のガイド女性の名前、電話番号から、メールアドレス等が記載されている。この女性の名前はコジマ・エミという名前で、朱莉よりも10歳年上の36歳の女性。12年前からモルディブに住み、3年前に現地の男性と結婚したと、プロフィールには書いてある。彼女とはもうメールで何回も連絡を取り合っているので、準備していくべきもの等様々な情報を教えてもらった。彼女のおかげで朱里は迷うことなく旅行の準備を済ませることが出来たのである。「あ、そろそろ出なくちゃ」飛行機の便にはまだ4時間近く余裕があったが、慣れない空港であたふたしたくない朱莉は時間に余裕を持って出発することにしたのである。ガラガラと大きなスーツケースを引っ張って朱莉は億ションを後にした。****電車に乗り込むと朱莉は早速、翔と明日香にメッセージを送った。『今、電車に乗りました。念
その頃――翔不在のオフィスで琢磨は忙しそうに仕事をしていた。副社長である翔が不在の間は急を要する重要事項の書類などはオンラインでやり取りをし、彼の承認を得られれば、琢磨が決済の印を押す……等の重要な仕事も行っているので気が抜けない。「翔、このデータで間違いないな?」『ああ、問題ない。これでいこう」翔とオンラインで仕事のやり取りを行っていた時に、琢磨のスマホに着信が入った。『琢磨、今メッセージが届いたようだが、確認しなくていいか?」「ん? ああ、別にいいさ。今はお前と仕事している最中だし」『だが急ぎの要件だったら困るだろう? 俺に構わず確認しろよ』「分かったよ」翔に促されて琢磨はスマホを確認し……顔色を変えた。『何だ? 何かあったのか?』琢磨の変貌に気づいた翔は声をかけた。「……メッセージの相手は……朱莉さんからだった。」『何だ、そうだったのか。……珍しいな。お前にメッセージを送るなんて』「お前……明日香ちゃんと成田空港近くのホテルに昨夜から泊まっているんだよな?」『そうだ。明日香がそうしろって言うからさ。ホテルを手配したのも明日香なんだ』翔のいつもと変わらぬ口調に琢磨は苛立ちが募った。(……一体何なんだ!? 翔の奴め……!)「おい。翔」『な、何だ?』突如口調が変化した琢磨に戸惑う翔。「自分達だけ空港近くのホテルに前日から泊まって、朱莉さんだけ自宅から直接空港に向かわせたのか?……朱莉さんの事だ。きっとこの炎天下の中、重たいスーツケースを持って電車に乗っているに決まっている! 本当にお前は思いやりの心も無いのか? 自分達だけはファーストクラスに乗り、朱莉さんにはエコノミーを使わせるし!」最後の方は怒りの口調になっていた。しかし、それを聞いて驚いたのは翔の方だった。『え? 何だって!? そうだったのか? 明日香が朱莉さんの分もホテルを予約しておくと言っていたから、俺はてっきり……』「それで……明日香ちゃんは今そこにいるのか?」『いや、ホテルのカフェに今行ってるはずだが……』「そうか……」琢磨は溜息をつくと、自分の気持ちを告げた。「翔。お前が副社長ですごく忙しい身だって事位、秘書として働いている俺にはよく分かっている。だがな、これからは朱莉さんに関連することは明日香ちゃんに任せるな。いいか? ……これじゃあまり
「朱莉さん……本当に一人でモルディブまで来れるだろうか? 同じ便なんだから空港で待ち合わせをしても良かったんじゃないか?」ここは成田空港のファーストクラスラウンジ。翔は明日香に問いかけた。「何言ってるの。ここの部屋を使えるのはファーストクラスに搭乗する人達だけっていうのは翔だって知ってるでしょう? それじゃ私たちにエコノミークラスの人達と同じ場所で待とうって言うの? そんなの嫌よ。あんな場所で待つなんて疲れるわ」フンと言いながら明日香はそっぽを向く。「いや、別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだが……。それじゃ、明日香。お前だけここを使っているか? 俺は朱莉さんを……」すると突然明日香がヒステリックに叫んだ。「何よ! それって私よりも朱莉さんの方が大事だって言うの? だから彼女を選んで結婚したのね? 酷いわ……。翔が彼女と夫婦って事だけで十分私は苦しんでいるのに……そのうえ、こんな私を放っておいて、翔は彼女の元へ行くっていうの!?」目に半分涙を浮かべながら詰る明日香。「ち、違う。そうじゃないんだ……。ごめん、悪かったよ明日香。大丈夫、心配するな。俺が愛しているのは明日香だけだから……」人目も気にせず、ヒステリーを起こしている明日香を翔は抱き寄せて、背中を撫でながら落ち着かせる。明日香はここ最近情緒不安定気味になっている。もともと嫉妬心も独占欲も昔から人一番強かった明日香は、やはり書類上だけの夫婦となった朱莉に対して激しく嫉妬していた。いくら朱莉と翔が一切会う事も無く、またメッセージ交換も週に1度で、そのやり取りを明日香に見せている。(どうすれば明日香の不安な気持ちを払拭させる事はが出来るんだ? 将来的に明日香と結婚するために偽装妻を持ったのに、かえって明日香を苦しめているのだろうか……?)翔は明日香を抱き寄せながら心の中で深いため息をついた。(すまない、朱莉さん。無事にモルディブまで来てくれよ……)心の中で翔は祈った――**** 成田空港を出て、コロンボ経由。そして無事にマーレ空港へと約10時間のフライトで、ようやく地上に降り立つことが出来た朱莉は溜息をついた。「良かった……無事にここまで来ることが出来たわ」正直に言うと、コロンボを降りた時は不安でいっぱいだった。言葉も通じないような場所で乗り換え等出来るのだろうかと最初は不
朱莉たちが泊まるホテルは空港がある島のホテルだった。「それにしても珍しいわね~。たいていは島の水上コテージに泊まるのが主流なんだけど、ホテルとはね……まあ、この島なら不便は無いから。それで選んだのかしら?」エミは車を運転しながら首を傾げる。「さあ……私からは何とも……」朱莉はほとんどモルディブの事を知らないので、曖昧な返事しかできない。そんな朱莉をチラリとエミはチラリと見る。「でも運が良かったわ~。ここはね、5月~10月が雨季なんて言われてるけど、今日は良く晴れているわ。滞在中はずっと晴れてるといいわね」「そうなんですか? それじゃ私、ほんとについていたんですね。お天気に恵まれたし、エミさんのように素敵な女性ガイドさんにも巡り合えたし」「あら、そう言ってくれると嬉しいわ」エミは軽快に笑う。「あ、アカリ。ホテルが見えてきたわよ」エミの指さす方角に海岸沿いに建つ白い壁が美しいホテルが見えてきた――**** フロントでエミがホテルの従業員と話をしている間、朱莉はホテルのロビーのソファに座り、ぼんやりと外を眺めていた。窓からは美しい海に白い砂浜が見える。とても素晴らしい景色ではあったが、朱莉の心は沈んでいた。(やっぱり何も連絡来ないんだな……。今頃あの2人はどうやって過ごしているんだろう……?)そんなことを考えていると、手続きが終了したのか、エミがこちらへとやってきた。「お待たせ、アカリ。……あら? どうしたの? 元気が無いようだけど大丈夫?」「え、ええ。大丈夫です。少し慣れない旅行で疲れただけですから」「そう……? それでこのホテルは朝食は出るけど、昼と夕食は食事が出ないの。一応ホテルには24時間空いているカフェがあるから、そこで軽食を取ることが出来るけど……どうする? 今夜は一緒にお店で食事しようと思っていたんだけど」「そうですか。でも……すみません。折角のお誘いなんですが体調が悪いので明日にしていただいてもいいですか? 今夜はホテルのカフェで食事しますので」「そう……? 分かったわ。お部屋はこの上の805号室よ。はい、これが部屋のカードキー」エミは朱莉にカードキーを渡した。「ありがとうございます」「それじゃ、明日10時に部屋に迎えに行くわね?」「え?」「あら、いやね。私は通訳だけど、ガイドでもあるんだから。観光案内し
「あら、朱莉さんじゃないの?」朱莉は突然背後から声をかけられた。恐る恐る振り返り、翔と明日香が仲睦まじげに腕を組んでいる姿が目に飛び込んできた。(翔先輩……!)その瞬間目頭が熱くなり、涙が出そうになった。しかし、それを必死で我慢すると挨拶した。「こ、こんにちは。明日香さん、翔さん」翔は朱莉が1人でいるのを見て顔色を変えた。「朱莉さん……一体どうしたんだ? 昨夜はあの後、メッセージを送っても返信が無いし、部屋を訪ねても留守だったみたいだけど?」どうしよう……。本当の事を言うべきだろうか? 朱莉はチラリと明日香を見た。(駄目……明日香さんがいるから本当のことを言えない……それなら……)「あ、あの。やはり母が疲れたから病院に戻ると言ったので……タクシーに乗って病院へ連れて帰って戻ったんです」俯きながら朱莉は答えた。「何だ……そうだったのか。何かあったのでは無いかと心配したんだよ」翔は安心した表情を浮かべる。「あら、そうだったの? 人騒がせな話ね」「……ご心配おかけしました……」眉を顰める明日香に朱莉は謝罪した。「どうして本当の事を言わないんだい? 朱莉さん」その時。突然近くから男性の声が聞こえ、朱莉たちは一斉に声が聞こえた方向を振り返った。するとドッグランの柵に頬杖をついて、朱莉たちを見下ろしている人物の姿があった。「きょ……京極さん……」朱莉はごくりと息を飲んで京極を見上げた。一体いつから京極は自分たちの会話を聞いていたのだろうか? 一気に緊張が高まり、朱莉は両手をギュッと握りしめた。「あら? 貴方は確か……」明日香が首を傾げる。「ええ。僕が朱莉さんの犬を引き取った者です」一方、何のことかさっぱり分からないのは翔の方であった。しかし、朱莉の犬を引き取って貰ったとなるとお礼を言わなければならない。「朱莉さんの犬を引き取ってくれたと言う方は、ひょっとすると貴方だったのですか? どうも有難うございました」翔は頭を下げると京極は眼を細める。「貴方はどちら様ですか?」尋ねたその瞳はどこか棘がある。「え……?」2人の様子を見た朱莉は焦った。(いけない! 今翔先輩は明日香さんと腕を組んでいる……。もし翔先輩が正直に話してしまったら……!)「あ、あの……この方はこちらにいらっしゃる明日香さんと言う方の……お兄様に当たる
—―日曜日 琢磨は朱莉と翔があの後どうなったのか気になって仕方が無かったので、とうとう我慢できずに翔にメッセージを書いた。『翔、昨夜は朱莉さんと朱莉さんのお母さんときちんと会って話が出来たんだろうな?』そして送信する前に再度メッセージを読みなおし……何だか馬鹿らしくなってきた。「何だって言うんだ……? 別に俺にはあの2人のことなんか全く関係が無い訳だし……」スマホをソファに放り投げると、琢磨はポツリと呟いた。「久しぶりに江の島にでも行ってみるか……」今日は何故か家でじっとしている気になれなかった。琢磨は立ち上がると出掛ける準備を始めた——****「明日香、今朝の体調はどうだ?」琢磨はまだベッドの中にいる明日香に声をかけた。「うん……。大分良くなったかしら……」ベッドの中でまどろみながら明日香は返事をする。「そうか、これから朝食の準備をしようと思うんだが……食べれそうか?」翔は明日香の額に手を当てながら尋ねた。「うん、大丈夫よ。ねえ、何を作ってくれるの?」「ツナのピザトーストにオムレツ、野菜スープを作る予定だ」「わあ、美味しそう。それじゃ起きなくちゃね」明日香はウキウキとベッドから起き上がると、翔の首に腕を回してキスをする。「愛してるわ、翔」「ああ、俺もだよ……明日香」翔は明日香をしっかり抱きしめると耳元で囁いた――****「はい、どうぞ。ネイビー」朱莉はネイビーに餌と水をやると、ネイビーは口をモグモグ言わせ餌を食べ始めた。その姿はとても愛らしく、朱莉の心を癒してくれる。「ふふふ……本当に可愛い……」フワフワのネイビーの背中を撫でながら朱莉は笑みを浮かべた。それと同時に脳裏によぎるのは京極に預けたマロンの姿と、青ざめた顔でベッドに横たわる母の姿。 15時になったら朱莉は母の面会に行こうと思っていたが、正直会うのは怖かった。昨夜、あの母の取り乱した様子を見れば、絶対に何か気付かれてしまったのは間違いない。それを今日、面会に行って追及されたら? 母に嘘をつき通せる? それともいっそ母には誰にも言わないでと口止めをして契約婚の事を話してしまおうか……?「駄目……そんなの出来っこない。私がお金の為に契約婚をしたことを知ればお母さんは私を軽蔑するかもしれない。傷付くに決まっている。最低でも後5年……お母さんには何もバ
「え……? そ、それはどういうことですか……?」「お母様の方から、どうしても外泊許可を出して貰いたいとせがまれたのですよ。なのでこちらも断念して外泊許可を出したのですが、やはりまだ無理だったんですよ。面会されて行きますよね? 簡易ベッドがあるので、泊まり込みも出来ますが、どうされますか? でも無理にとは言いません。こちらで患者さんの様子はしっかり見ますし、今はもう安定していますから」「は、はい……」朱莉は一瞬躊躇したが……部屋にはネイビーが残されている。なので朱莉は病院に泊まり込むのは無理だった。「あの……どうしても家を留守に出来ないので面会だけして帰ります」朱莉は俯きながら答えた。「そうですか。分かりました。では……我々はこれで失礼しますね」主治医は頭を下げると、看護師を連れて朱莉の前から去って行った。それを見届けると朱莉はそっと病室のドアを開けて中へと入って行く。「お母さん……」ベッドに横たわった朱莉の母は顔色が真っ青だった。点滴に繋がれ、酸素吸入を付けられた母を見ていると胸が潰れそうに苦しくなった。朱莉は眠っている母に近付くと、ギュッと母の手を握り締めた。「ごめんなさい……。お母さん……。私が心配かけさせちゃったから、無理に外泊許可を貰ったんだよね……? あんなことがあったから具合が悪くなっちゃったんだよね……?」朱莉は涙を流しながら母の手を握りしめながら思った。自分は何て親不孝な娘なのだろうと。(ごめんなさい……ごめんなさい……)朱莉は心の中でいつまでも母に謝罪を繰り返し続けた——**** 病院の帰りのタクシーの中、朱莉は翔との連絡用スマホを手に取った。そこには朱莉宛にメッセージが残されていた。『朱莉さん、今夜は本当に悪かった。夜、明日香の元へ来てくれるはずの家政婦さんが体調を崩して来れなくなてしまって、不安に思った明日香が過呼吸の発作を起こしてしまったんだ。なので明日香の側をれる訳にはいかなくなってしまった。1人にする事は出来ない。申し訳ないがお母さんによろしく伝えてくれないか? それにやはり親子水入らずで過ごしたほうが良いだろう? また明日連絡を入れるよ。それじゃ、おやすみ』朱莉は呆然とそのメッセージを見つめていた。翔が明日香を一番優勢に見ているのは分かっていた。分かってはいたが、ここまではっきり現実を突きつけられて
「明日香、大丈夫か!?」翔は玄関で靴を脱ぎ捨てるように部屋の中へ駆け込むと、リビングのソファに倒れ込んでいる明日香の姿を発見した。(明日香っ!!)「明日香! 明日香! しっかりしろ!」慌てて助け起こすと、明日香はぼんやりと目を開けた。「あ……」明日香は激しい呼吸を繰り返し、息を吸い込もうとしている。(過呼吸の発作だ!)咄嗟に気付くと、明日香に声をかけ続けた。「明日香……落ち着け……ゆっくり息を吐いて呼吸するんだ……そう、その調子だ……」明日香を抱き締めながら、暗示をかけるように明日香の耳元で繰り返し言う。やがて、明日香の呼吸が安定してくると、翔は身体を離した。「明日香……今水を持って来るから待ってろよ?」ウオーターサーバーから水を汲んでくると、翔は明日香を支えて水を飲ませた。明日香はゴクゴクと水を飲み干すと、ようやく息を吐いて翔を見つめる。「明日香……一体どうしたんだ? 家政婦さんはまだなのか?」翔は明日香の隣に座ると尋ねた。「突然今日やって来てくれる家政婦が発熱したらしくて今夜は来れなくなってしまったそうなの……」「そうなのか……?」「だから……今夜は1人になってしまうかと思うと怖くなって、それで発作が……」明日香は翔にしがみ付くと叫んだ。「ねえ! 翔……何処にも行かないでよ! お願い……私の側にいて……独りぼっちにさせないでよ! 1人は嫌……怖くてたまらないの……!」そして肩を震わせながら翔の胸に顔を埋めた。(明日香……)「分かったよ、明日香。安心しろ……。ずっとお前の側にいるから……」翔は明日香の髪を優しく撫でた。「本当に……? 本当に側にいてくれるのね?」明日香は眼に涙を浮かべながら翔を見つめる。「ああ、勿論側にいるよ。朱莉さんにはお母さんもいることだし、大丈夫だろう。それにやっぱり親子水入らずにさせてあげるべきかもしれないしな。今朱莉さんに電話を入れるよ」翔はスマホをタップしたが、一向に朱莉は電話に出なかった。「おかしいな……? 何で出ないんだろう?」翔は首を傾げた。「何?朱莉さん…電話に出ないの?」明日香は翔を見ると尋ねた。「ああ……そうなんだ。こうなったら直接朱莉さんの所へ行って来るか。明日香、悪いけど少しだけ留守番をしていて貰えるか? すぐに帰って来るから」「ええ……分かったわ。で
(え……? 鳴海……翔……? この顔、以前何処かで見た気がする。でも……一体何処で……?)その時、朱莉が声をかけてきた。「あの、それじゃ食事の準備が出来たので皆で食べましょう?」「ああ、そうだね。へえ~すごく美味しそうだ」琢磨は笑顔で食卓に着くと、朱莉は顔を赤らめて翔の隣に座った。そんな様子を見て洋子は思った。(朱莉はこの男性のことが好きなのね。でも何故かしら? 私としては病院迄来てくれた男性の方が好ましいと思うけど……)食卓にはシチューとマッシュルームとベーコンのバターライス、サーモンとアボガドのサラダが用意されていた。朱莉は生れて初めて、翔を交えた母と3人の食卓を囲んだ。朱莉の胸は幸せで一杯だった。ずっと片思いをしていた翔と、そして大好きな母と3人で今、こうして食事をしているのが、まるで夢のようだった。翔は始終優しい笑顔で朱莉と、朱莉の母に自分の趣味や仕事のことを話して聞かせてくれた。やがて食事も終わり、洋子は奥のリビングで休んでいた。そして朱莉が片づけを始め、翔が手伝おうとしていたその時……。突然翔のスマホが鳴り響いた。それを手にした翔の顔色が変わったのを朱莉は見逃さなかった。「翔さん……その電話、明日香さんからじゃないですか?」朱莉は翔に尋ねた。「あ、ああ……。そうなんだ……」翔は困ったように朱莉を見た。「どうぞ、電話に出てあげてください。明日香さん、何か困ったことが起きてるかもしれませんし」「あ、ああ……すまない。朱莉さん」言うと翔はスマホを手に取った。「もしもし……。明日香? どうした? おい、明日香! 返事をしろっ! ……くそっ!」その声にリビングで休んでいた洋子も何事かとやって来た。翔は電話を切ると朱莉に向き直った。「すまない。朱莉さん。……明日香の返事が返ってこないんだ。何かあったのかもしれない……。本当に申し訳ないが……」「ええ、私なら大丈夫です。どうぞ明日香さんの元へ行ってあげて下さい」朱莉の言葉に洋子は驚いた。「え!? 明日香さんて……一体誰のことなの!?」すると翔は頭を下げた。「お母さん……本当に申し訳ございません。明日香が苦しんでいるのです。すみませんが、彼女の元へ行かせて下さい!」そして頭を下げると、朱莉の方を振り向いた。「朱莉さんも……本当に……ごめん!」翔は上着を掴むと足早
「ほら、お母さん。この子がペットのネイビーよ?」朱莉は笑顔でネイビーを抱きかかえると洋子に触らせた。「まあ! 何て可愛いのかしら……フフフ」洋洋子は笑顔でネイビーを撫でながら、朱莉の顔をチラリと見た。(朱莉……貴女はいつもこんなに広い部屋で一人ぼっちで暮していたの? もしかして貴女の結婚て何か意味があるの? どうして何も説明してくれないのかしら……?)「どうしたの? お母さん。さっきから私の顔をじっと見て……」「あ、いいえ。何でもないの。ただ病院以外で朱莉の顔を見るのは久しぶりだと思って」「そんなことだったの? 嫌だなあ。お母さんたら。今日外泊出来たってことは大分身体が良くなったってことでしょう? きっとこれからも外泊出来る日が増えてくるに決まってるんだから。ね?」「え、ええ。そうね」洋子は曖昧に笑ったが、実際は体調が良くなったというわけでは無かったのだ。朱莉のことがどうしても心配で、無理を言って1泊だけ外泊許可を病院から貰ってきたのであった。「それじゃお母さんはリビングで休んでて。すぐに夕食の準備をするから」「ええ、分かったわ。それじゃお言葉に甘えて休ませてもらうわね」朱莉が台所で料理をする音を聞きながら洋子はリビングへ向かった。リビングルームもとても広く、置かれた家具はどれも上質の物ばかりだったが、その全てが洋子の目には作り物の……まるでモデルルームのようにしか見えなかった。この部屋には、若い新婚夫婦の甘さ等一切無い、冷たく冷え切った部屋にしか感じられなかったのだ。(朱莉……貴女……本当に大丈夫なの……?)洋子は食事が出来るまでリビングで休みながら、娘の身を案じて心を痛めていた。鳴海翔……。洋子はその名前を何処かで聞いた覚えがあった。でも……それはいつのことだったのだろう? だが、大切な一人娘をこのような孤独な境遇に置くなんて。きっと冷たい人物に違いない。そしてそれとは逆に秘書を務めているという琢磨のことを考えていた。(ああいう男性だったなら安心して朱莉を任せることが出来るのに……世の中はうまくいかないものなのね……)やがて、洋子がウトウトしかけていた時、朱莉の声が聞こえてきた。「お母さん……大丈夫? 今シチューが出来たんだけど」「ああ……ごめんなさいね。うっかり眠ってしまったみたいで」「ううん、いいのよ。それでど
やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」「う、うん。そうなの」朱莉は少しだけ目を伏せる。(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)「朱莉? どうかしたの?」母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。「九条です。九条琢磨と申します」「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。「九条さん」朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。「九条さん。本当に今日はありがとうございました」「! い、いえ……」琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」「うん。そうだね」(今度九条さんに何かお礼をしないと……)朱莉は母に声をかけた。「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」**** エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」朱莉は自分の部屋に
「お母さん、迎えに来たよ」朱莉は笑顔で母の病室へとやって来た。「あら、朱莉。早かったのね。でも嬉しいわ。貴女と一緒に1日過ごせるなんて何年ぶりかしらね?」洋子はもうすでに外泊の準備が出来ていた。いつものパジャマ姿では無く、ブラウスにセーター、そしてスカート姿でベッドの上に座り、朱莉を待っていたのだ。朱莉の後ろから琢磨が病室へと入って来ると挨拶をした。「初めまして。朱莉さんのお母様ですね。私は……」すると洋子が目を見開いた。「まあ! 貴方が翔さんですね? 初めまして、私は朱莉の母の洋子と申します。いつも娘が大変お世話になっております」「お母さん、待って、違うのよ。この方は……」挨拶をする洋子を見て朱莉は慌てると、琢磨が自己紹介を始めた。「私は鳴海副社長の秘書を務めている九条琢磨と申します。本日は多忙な副社長に代わり、お迎えに上がりました。どうぞよろしくお願いいたします」そして深々と頭を下げた。「まあ、そうだったのですね? 申し訳ございませんでした。私ったらすっかり勘違いをしておりまして」洋子は自分の勘違いを詫び、頬を染めた。「いえ、勘違いされるのも無理はありません。それでは参りましょうか? お荷物はこれだけですか?」琢磨はテーブルの上に置かれているボストンバックを指さした。「はい。そうです」洋子が返事をすると、琢磨はボストンバックを持って先頭を歩き、朱莉と恵美子がその後ろに続いて並んで歩く。洋子が朱莉に小声で囁いた。「嫌だわ……私ったらすっかり勘違いをしてしまって」「いいのよ、お母さん。だって分からなくて当然よ」朱莉は笑みを浮かべる。「え、ええ……。そうよね。でも……改めて鳴海って苗字を聞くと、何処かで聞き覚えがある気がするわ」洋子は首を傾げたが、朱莉はそれには答えずに話題を変えた。「ねえ、お母さん。今夜はね、お母さんの好きなクリームシチューを作るから楽しみにしていてね?」「ありがとう。朱莉」****「今、正面玄関に車を回してくるので、こちらでお待ちください」琢磨は朱莉と洋子に言うと、足早に駐車場へと向かっていく。その後姿を見送りながら、洋子が朱莉に言った。「あの九条さんと言う方……すごく素敵な方ね?」「うん。そうなのよ。だけど今はお付き合いしている女性がいないみたいなの」「そうなのね。誰か好きな女性でも
「あの…九条さん、本当に車を出していただいてよろしいのでしょうか?」朱莉の躊躇いがちな言葉に琢磨は我に帰った。「勿論だよ。俺は翔の秘書だからな。朱莉さんのお母さんに挨拶するのは当然だと思っているし、翔が病院まで迎えに行けないのなら、俺が行くのは当たり前だと思ってるよ」自分でもかなり滅茶苦茶なことを言ってるとは思ったが、琢磨は少しでも朱莉の役に立ちたかった。「そこまでおっしゃっていただけるなんて光栄です。それに翔さんにも感謝しないといけませんね」朱莉が笑みを浮かべながら、翔の名を口にした事に琢磨の胸は少しだけ痛んだ。「それじゃ、行こうか? 朱莉さんも乗って」琢磨は朱莉を車に乗るように促した。「お邪魔します」朱莉が助手席に乗り込むと、琢磨も運転席に座りシートベルトを締める。「よし、行こう」そして琢磨はアクセルを踏んだ―—****「九条さんはお休みの日はもしかしてドライブとか出掛けたりするんですか?」車内で朱莉が尋ねてきた。「うん? ドライブか……。そうだな~月1、2回は行くかな? 友人を誘う時もあるし、1人で出かける時もあるし……」「そうなんですか。やはりお忙しいからドライブもなかなか出来ないってことですか?」「いや。そうじゃないよ。俺は休みの日はあまり外出をすることが無いだけだよ。大体家で過ごしているかな。好きな映画を観たり、本を読んだり……。月に何度も出張があったりするから家にいるのが好きなのかもな」「そうですか……。私は普段から自宅に居ることが多いからお休みの日は出来るだけ外出したいと思っているんです。だから、実は今度翔さんに教習所に通わせて貰おうかと思っているんです。それで免許が取れたら車を買いたいなって……。あ、も、勿論車は翔さんから振り込んでいただいたお金で買うつもりですけど」朱莉の話に琢磨は目を見開いた。「朱莉さん……何を言ってるんだ? 車だって翔のお金で買えばいいじゃないか。何度も言うが、朱莉さんは書類上はれっきとした翔の妻なんだから。もし車を買いたいってことが言いにくいなら俺から翔に伝えてあげるよ。それに……外出をするのが好きなら俺でよければ……」そこまで言うと琢磨は言葉を飲み込んだ。「え? 九条さん。今何か言いかけましたか?」「い、いや。何でもないよ。ほら、朱莉さん。病院が見えてきたよ」琢磨はわざと明